源 季貞

(ミナモトノ・スエサダ)
『飯富季貞』より : 飯富 季貞(おぶ すえさだ、生没年不詳)は平安時代の武将、歌人。源 季貞(みなもと の すえさだ)。清和源氏の河内源氏源義忠 義忠流とも清和源氏源満快 満快流、源満政 満政流ともいう。源氏の一族でありながら平家の侍大将であり、文武両道に秀でた武将。本拠地飯富庄(現千葉県)に由来し、飯富氏を称した。通称、源大夫判官季貞。子孫に飯富虎昌がいる。
父の名は不詳。一説に源季遠。季遠が満政流の源重時の養子となったことから清和源氏満政流といわれるようになるが、季遠の実父は不明。季貞は飯富氏を称し、その子、飯富宗季 宗季も飯富氏を称す。同じ飯富庄を本拠地とした飯富忠宗との血縁関係があったのではないかということから、忠宗の父、源義忠を流祖とする清和源氏義忠流といわれることもあるが、流派に関しては諸説があって定かではない。
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  • 飯富季貞 - Wikipedia
    飯富 季貞 (おぶ すえさだ/ 源 季貞 (みなもと の すえさだ)、生没年不詳)は、 平安時代 末期の 武将 ・ 歌人 。 清和源氏 の 河内源氏 義忠 流とも 満政 流、 満快 流ともいう。清和源氏の一族でありながら 平家 の 侍大将 であり、文武両道に秀でた武将。本拠地飯富庄(現 千葉県)に由来し、 飯富氏 を称した。通称は 源大夫判官 。子孫に 飯富虎昌 がいる。 平家 ...(1月26日 2時54分)
  • 源季貞 とは - コトバンク
    朝日日本歴史人物事典 源季貞の用語解説 - 平安末期の武将。歌人。清和源氏源満政の子孫。父は源重時の養子季遠。仁平3(1153)年滝口(滝口武者),右馬少允,右衛門尉と進む。検非違使を兼ね治承5(1181)年従五位下。源大夫判官と呼ばれた。御幸の ...(1月24日 20時27分)
  • 源季遠 - Wikipedia
    源 季遠 (みなもと の すえとお、生没年不詳)は 平安時代 後期の 武士 ・ 歌人 。 平忠盛 ・ 平清盛 の郎党。子に、平家の侍大将の大夫判官 源季貞 らがいる。 勅撰和歌集 ( 詞花和歌集 )に、子の源季貞( 千載和歌集 )とともに入選しているが、著名な歌人ではない。(1月24日 17時04分)
  • 平清盛と静憲法印の問答、その1|平家物語のあらすじと登場人物(93)
    静憲法印は、このような様子なら待っていても無駄だと思い、大夫判官・源季貞へ、後白河法皇の意を託し、「いとまごいをします」と言って屋敷を出ました。ちょうどその時、清盛から「法印を呼べ」という指示があり、静憲法印は呼び返されました。(1月27日 21時26分)
  • 源 季貞
    戦国時代、西播の有力国人として御着城に拠った小寺氏は、播磨国佐用庄の地頭で室町時代に播磨守護となった赤松氏の一族である。すなわち赤松氏の祖源季房の孫頼範の四子将則を遠祖とし、将則の曽孫頼定の次子頼季が初めて小寺氏を称したと ...(12 ...(1月25日 18時56分)
  • Elder Thingの意味 - 英和辞典 Weblio辞書
    The particularly important thing in this battle was that one of the commanders supporting Heike was MINAMOTO no Suesada who was a descendant of MINAMOTO no Yoshiie as well as Yoshitoki, and was an elder second cousin of MINAMOTO no ...(1月20日 23時13分)
  • 西行の生涯とその歌
    俗名源季政。生没年未詳。 ただし、山家集によると西行以前の入寂(:死亡)。 源季貞の養子。 西行の同行者として山家集および西行説話、謡曲 『西行西住』などに見える。 寂然、藤原俊成らとも交友があった。(1月28日 12時17分)
  • 常盤恵冠者為俊 佐々木哲学校/ウェブリブログ
    さて、平為俊改め源季定が養子にしたという近江中将成雅は康治二年(1143)正月に前山城守藤原頼輔と乱闘事件を起こしていますが(『本朝世紀』正月十二日条)、成雅の雑色を捕らえたのは「右衛門権少尉藤公俊」すなわち為俊の養子の公俊でして ...(1月23日 2時11分)
  • 稲沢氏とは - goo Wikipedia (ウィキペディア)
    初代、稲沢盛経は小源太と称し、平清盛、平宗盛らに従い、源季貞・平重衡の指揮下にあった。治承4年(1180年)に以仁王と源頼政が挙兵するとそれを平重衡の指揮下で従軍し、その討伐にあたった。また、同年、同族の河内源氏石川氏(源義基、源義兼ら)を追討する源季貞、 ...(1月25日 3時46分)
  • 願わくば
    その義時の子の義基は、1180 年に頼朝が挙兵した時に呼応するのですが、背後をつかれるのを恐れた平氏が討手としてつかわせた河内長野源氏の源季貞らによって、河南町の大ケ塚の石川城で討ち死にしています。(1月21日 2時01分)

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